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なぜ、ボキャビルをするのか?(続)

なぜ、数万語の語彙が必要なのか?

私は、いろいろなものを読むのが好きで、もちろんいちいち辞書を引かずに気楽に読みたい。

たとえば the Newyorker を楽しんで読みたいし、そのためには5~10万語の語彙が必要になる。

そんな趣旨のことを、「なぜ、ボキャビルをするのか?」で書きました。

国語学の大野晋先生は、自著『日本語練習長(岩波新書)』の第1章「単語に敏感になろう」で、数万語の語彙が必要な理由を次のように述べておられます(省略・太字はk.y.)。

(引用開始)語彙が多いとか少ないとかいうけれど、人間はどのくらいの言葉を使うものなのか。
 例えば新聞や雑誌に使われている単語は、年間およそ三万語といわれています。しかし、その五十~六十パーセントは、年間の使用度数1です。つまり、半分の単語は新聞・雑誌で一年に二度とお目にかかることがない...
 生活していく上で間に合うという数でいえば、三千語あれば間に合う。だいたいは生きていられる。これが、いわゆる基本語です。では、三千語知っていればいいか。言語生活がよく営めるには、三千語では間に合わない。三万から五万の単語の約半分は、実のところは新聞でも一年に一度しか使われない。一生に一度しかお目にかからないかもしれない。しかし、一年に一度、一生に一度しか出会わないような単語が、ここというときに適切に使えるかどうか。使えて初めて、よい言語生活が営めるのです。そこが大事です。語彙を七万も十万ももっていたって使用度数1、あるいは一生で一度も使わないかもしれない。だからいらないのではなくて、その一回のための単語を蓄えていること。
 例えば「味」についていえば、「味得する」という単語があります。これは確かに使用度数は少ない。今やもう、ほとんど使わなくなっているけれど、なにかの時に「それが味得できた」と使うことでピタッと決まることがある。「深い、かすかな味わいが分かった」では、文章の調子、文体としてだめなときがある。文章を書くには、一度使った単語や言い回しを二度繰り返さないという文章上の美意識がある。それに触れる。何か、別の言い回しが必要になる。そのとき、その書き手がどれだけ語彙をもっているかが問題になる。類語辞典が役立つのはそういうときです。
 なんでもかんでもむずかしい言葉をたくさん覚える必要があるといっているのではありません。そのときどきに、ピタッと合う、あるいは美しい表現ができるかどうか。それが問題です。それが言語の能力があるということです。歌人や小説家が辞書を読んで単語を覚えようとしたのは、そういうときに備えたいからです。だから、読み手もその細かい心づかいにつきあうだけの感度をそなえていなくてはいい読者といえません。(引用終止)

いい文章ですね!

読み手の側にたって、ある単語ひとつが分からないためにその節全体が分からなくなることもめずらしくありません。出現頻度の問題ではないのです。

「語彙力=言語能力ではない」という人たちに読んでほしいと思います。

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