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記憶(17)記憶とことば(1)

記憶(16)で、「人は、ものごとを ― で処理し ― 必ずことばに置き換えて記憶します」と書きました。

ところで、養老孟司さんが雑誌 『文芸春 2005年8月号』で東京都知事・石原慎太郎さんと対談(「特別対談「子供は脳からおかしくなった」)し、次のように語っています(養老 以外の太字k.y.)。

(引用開始)

養老 こんな例があります。ナディアという少女が、5歳のときに疾走する馬をデッサンしていますが、その出来はレオナルド・ダ・ヴィンチのそれと匹敵するぐらい素晴らしいものでした。ところが彼女は自閉症で、家族やお医者さんは一生懸命になってそれを治す。完治してことばを話すようになると、もうそのようなデッサンができなくなっていた。つまり、言葉ができるようになったために「どの馬でもあり得るようなウマ」という普通の名詞だけが頭の中を占めるようになり、今そこにある馬を感覚的に捉える、という、彼女がかつて持っていた豊かな世界がとたんに痩せてしまったわけです。

(引用終止)

この発言からは、少なくとも3~4つはおもしろい発想が可能です。しかし、今回はそのうちのひとつに絞って ― お二人の対談の文脈からは少しずれますが ― 書いてみます。

それは、冒頭でも触れた「人はすべてのことを ― 映像も含めて ― ことばに置き換えて記憶する」ということに直接関連しています。

ナディアという少女は自閉症で言葉を話すことが、つまりものごとを言葉で記憶することができなかった。その言語能力を補うために映像記憶能力を突出して発達させたと想像することが可能です。言語記憶に代替して鮮明な映像記憶を持つようになったと考えられます。

そしてこの映像記憶は、私の想像ですが、カメラで写したような映像であった、つまり、人間性を欠いた ― 言葉による取捨選択を経ていない ― フォト・コピーであったと思われます。ナディアのデッサンは、彼女の創作ではなく、彼女の網膜に映じたままの映像であったと考えられます。

しかし、言葉を獲得したことで、フォト・コピーのような記憶能力は必要ではなくなり、人間としては当然の「ことばによる記憶に」取って代わった。正常になったわけです。

正常になったあと、ナディアがたとえば競馬場で見たウマの話をするとき、そのウマはナディア独自の言葉で記憶されたウマになります。フォト・コピーのようなウマではなく、ナディア・ヴァージョンのウマです。

ただし、「どの馬でもあり得るようなウマ=ウマの概念」はどの人間にも共通の了解事項ですから、ナディアが「私の見たウマはねえ...」と話し出せば、ナディアのことばがいかに個性的であっても、それがウマを描写していることは瞬時に理解できます。

また、記憶(=ことばによる描写)は、語彙数が増えたり減ったり外国語になったりすると ― 同一人物の記憶であっても ― 当然ながら変化します

だから、記憶はあてにならないとも言える。

続く...


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