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中村修二の言語観:続

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(引用再開)

 ものを理解するには、いろいろな「言語」がある。物理には物理の言語、化学には化学の「言語」、そして哲学には哲学用語がある。私たちはこれらの言語(それは道具と置き換えてもいいのだが)によってものを理解しようとする。ということは、ものの性質はこうだと一概には決められないということだ。

 というよりも、道具や言語によってものの性質は左右されていると言ったほうがいいかもしれない。言葉や道具は何種類もあるその選び方によってものの規定の仕方は違ってくるのである。

 ところが往々にして人は、教えられた言語だけでものをとらえようとする。特に大学の専門家に「こうだ」と言われると、それしかないと考えてしまうのだ。こうして思考は停滞してしまう。物理は物を理解する何種類かの方法を教えているに過ぎない。科学においても、哲学においてもしかりなのだ。

 だから、それらの道具を使って何かを作らなければならないという時には、一つの言語や道具にとらわれていてはいけない

 物を作るに当たってまず大切なことは、道具は何種類もあることを忘れないことだ。一つがダメでも二つ目の道具を用いて作ってみればいい。二つ目がダメなら三つ目、三つ目がダメなら四つ目と、次々と新しい道具をくり出して挑戦してみることが大切なのである。

(引用中断)

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私は、半ば無意識に、科学の真理はひとつであると考えていた。いや、そんなことは、あまりに自明のことのように思えて、考えていなかった。

ところが、中村さんは、物の理解は使う「言語」によって異なると言明している。

そう言えば・・・と思い出したのが、英文学者の若島正さんが2004年11月7日の日経(日曜版)に書いていた「英語の授業で、日本の小説の英訳版を何度かテキストとして使ったことがある。それはなんとも奇妙な体験だった。芥川龍之介はまるでヨーロッパ小説みたいにみえた。大江健三郎は論理の流れが明快になって、どうも大江を読んでいるような気がしなかった。着物を剥ぎ取られたような文章になった谷崎潤一郎は、まったく別物としか思えなかった。例外的に違和感がなく、最初から英語で書かれたのではないかと考えてもおかしくなかったのは、ただ1人村上春樹だけだった」という話である。

この若島さんの話は、中村さんの「言語によってものの性質は左右されている」という言明と呼応している。

「最初から英語で書かれたのではないかと考えてもおかしくなかったのは、ただ1人村上春樹だけだった」という部分も、村上春樹の日本語は英語と同質であると考えたら矛盾はなくなる。

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人とは、言語である = Man is language 」と言える。


 

 
 

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