« March 2009 | Main | May 2009 »

コメントにお答えする(7/2009)

cozy さんへ

はじめまして。

ユニークなコメントをありがとうございます。

> 私も、生涯にわたって崩れない塔を建設すべく、目下、試行錯誤に励んでおります。

試行錯誤こそ創造のゆりかご、飛躍の源でしょう。 たとえば同じ医薬品でも個々の人によって効き目や副作用がひどく異なるようです。 ましてや複雑な知的作業に画一的な方法などあるはずもなく、試行錯誤するしかない、いや、試行錯誤こそ己が道を啓(ひら)く必須の過程だと思います。

> 苦労して作った愛着のあるカードで、永久的に復習に励むことは、とても大きな喜びがあると思うんですね。カードを見るたびに建設時の苦労が報われ、癒され、まるで漆塗りのように語彙が深く定着していく。すばらしい世界だと思います。

おっしゃるとおりです。 すばらしい表現に感嘆しました。

> どれくらい視界が開けて見えるのか、想像するだけでワクワクします。

別世界ですよ。 人によって感動の違いはあるでしょうが。

> 一方で、建設中ほどは、高いモチベーションを維持するのは難しいのではないかという不安があるんですね。

まず、建設中がたいへんですよ。 私も、われながら、いろいろ困難もある中でよくやったと、今でもつくづく思います。 それほどやりがいがあったということですが。

> 復習の頻度が徐々に下がり、もしかするとカードが埃を被ってしまうんじゃないかって。

それはありません。 数千時間をかけて取り組んだものが「埃を被る」ことなどありえません。 稀に見る天才を例に出して恐縮ですが、「イチロー選手」の日常はトレーニングも含めてほとんどルーティーンで ― 野球のためのルーティーンで ― 満たされているそうです。 そのルーティーンがあの稀有なプレーと記録に直結している由。「塔」復習のルーティーンはほんの毎日30分~1時間程度。 それが、「上級学習英英辞典」の語彙を維持してくれるわけです。 そんな手軽でしかも貴重なものを何で放置できましょうや。 

そのルーティーンがなければ「アンチ・バベルの塔」は崩壊して「バベルの塔」になってしまいます。 日本語の場合に「アンチ・バベルの塔」が不要なのは、「英語に比べて100倍」もの長い時間日本語に接してきたためです。 母語の海の中で暮らすこと自体が永久復習になっているからです。

> 人は、常に新しい知識を求めてしまう生き物だと思うんです。ついついカードの復習をするよりは、それをサボってでも、
1.新しい本をどんどん読んでしまう。
2.塔に未収録の語彙に興味が出てきてしまう。

御意!

1 新しい本をどんどん読んでいますよ。 「塔」と「永久復習」はまさにそのためのものです。 the Tower for its own sake = 「塔」のための「塔」ではありません。

2 「塔」に未収録の語彙に、もちろん、興味がでます。 それが自然です。 このことに関しては、私の説明が足りないのかも知れませんが、誤解が多いように感じています。 

「搭載語彙」ですべてというのでは決してありません。 それは「英語の読書の基盤語彙」なのです。 

日本人が日本語で読書する場合通常は辞書を使いません。 「日本語の読書の基盤語彙」があるからです。 「通常は辞書を引かなくても読書ができる語彙」=「読書の基盤語彙」です。 

私は英語でも日本語と同様に読書を楽しみたいと願いがあった。 その願いを実現するために「英語の読書の基盤語彙」を獲得したかった。 それが「搭載語彙」です。

他方、基盤語彙を獲得したからといって、辞書などが不要になるわけではありません。 私は、英語の辞書はもちろん、日本語の辞書もよく利用します。 新語も、興味があれば、覚えようとします。 

また、基盤語彙があるおかげで、辞書などにたよらなくても新たな語彙を増やせる場合が多いです。 

> 日本語で社会生活をしながら、英語の語彙を大量に保持するために、永久的復習のモチベーションって、いかにして保てるものなのでしょうか。

「英語の基盤語彙」がなければ、英語での読書を日本語での読書と同様には楽しめないからです。 

ただし、英語での読書や情報収集の意欲・必要性のあるなしやその意欲の強弱によって、永久的復習のモチベーションはさまざまでしょう。 もし、意欲・必要性がなければ、あるいは現在の自分の英語の語彙力にさして不満がなければ、そもそも「塔」を建設することなどまったくの無駄・時間の浪費に思えること請け合いです。 

> 「未完成の完成、完成の未完成」 という言葉があります。 建設中(未完成)にしか、語彙習得への熱き魂が脈打たないのではないかって思ってしまうんです。これが最大の心配なんです。

どうなんでしょう? 少なくとも「私」に関する限りそんなことは微塵もないと断言できます。 しかし、それがだれにもあてはまることなのかどうかわかりません。 

> 塔が完成してしまえば、次の 「塔なるもの」 を求めるのは、まったく自然であり、健全なことのように思えますが、それと 「永久的復習」 が両立できるものなのでしょうか?

「塔」の完成は、先ほども説明したことですが、語彙の完成を決して意味しません。 「搭載語彙」は、きりのない知的好奇心を支える基盤となる語彙に過ぎません。 

英語の場合、また私の場合、「永久的復習」なくしてその基盤を維持できないのです ― 「永久的復習」なしでも維持できる時期が来る可能性はあるでしょうが、今の時点では、それはあくまでも可能性であって現実ではありません。

それに、「永久的復習」は苦痛でも何でもありません。 寝食と同じルーティーンです。 

サボルこともありますよ。 たとえば、最近では John Grisham の 『The Rainmaker(711ページ)』 にはまってしまって週末の3日間かけて読んでしまいました。 その間 「塔」 の復習はゼロでした。 しかし、今や、その程度のサボりでは「塔」はビクともしません。 さらに、大量の読書は「塔」の復習の部分的代替にもなります。

以上、cozy さんの疑問に対する答えになっているのかどうかわかりませんが、私の感じたことを述べてみました。 また何かあれば遠慮なくコメントしてください。

今後ともよろしくお願いいたします。

Happy learning!

Thank you.


| | Comments (2) | TrackBack (0)

英文解釈(1)

ここ ( → http://cgi35.plala.or.jp/report-b/yybbs/read.cgi?mode=all&list=tree&no=4633 )で、Economist誌の記事にある ― IS THE Tata Nano the car the world has been waiting for, its launch this week a moment not only of automotive history but of real social significance ? Or will it prove to be no more than a dazzling digression for its troubled maker ? ― という英文の解釈について議論が行われている。

Economist は常に学校文法の模範のような構文を駆使している。今回議論されている文章もそうである。

その構文は Is A B, ( and ) ( is ) C D not only of E but of F ? Or will A prove to be G ? となる。

つまり、― A(=タタ・ナノB(=世界が待ち望んでいた車なのか、(また)C(=今週行われたタタ・ナノの発売、E( =車の歴史に限らずF( =実質的な社会的意義)においてもD( =画期となるものなのか? それとも、タタ・ナノは、G( =窮した自動車会社の単なる派手な脱線で終わってしまうのか? ― という意味になる。

「タタ・ナノは重大事なのか? それとも 茶番なのか?」 という対比。

ちなみに、『越前敏弥の日本人なら必ず誤訳する英文』 という(英語学習法の記述も含む)本はたいへんおもしろい。越前氏は『ダ・ヴィンチ・コード』などの翻訳者。

越前氏曰く (引用開始)結局、英語を正しく理解しているか否かを知るには、訳してみる以外に方法はないのです。「英語を英語のまま理解する」とよく言われます。それは最終目標としては正しいのですが、少なくとも日本語を母語として育った人間について言えば、おそらく正しく訳せないものは絶対に理解できていないと思います(引用終止) 

肝に銘ずべき至言である。

| | Comments (5) | TrackBack (0)

« March 2009 | Main | May 2009 »