いつの頃からか、「人民の、人民による、人民のための政治」というのは誤訳で、「人民が、人民のために、人民を統治すること」、あるいは、「人民による、人民のための、人民統治」が正しいのだ、つまり government of the people の of は目的格で the people は govern の目的語になるという説がまことしやかに喧伝されています。
一部の英和辞典までこの新説に同調した記述をしています。
はたして新説は正しいのでしょうか?
わたしはとんでもない珍説だと思います。「人民の、人民による、人民のための政治」こそ、正しい訳なのです。
Google で検索しても government of the people を「人民を統治すること」と解釈したネイティヴの文例は皆無です。
アメリカ人のマーク・ピーターセンがこのことに関して言及し、「リンカーンも驚くに違いない、突拍子もない文法的解釈...」と述べています。
以下は、マーク・ピーターセン著 『ニホン語話せますか?(新潮社)』からの抜粋(37~39ページ)です。和訳ではなく著者が日本語で書いたものです。参考にどうぞ。(改行は私が勝手に行いました)。
“私は、『日本語練習帳』などのような「日本語本」を、一人の日本語学習者として努めて読むようにしている。
その学習が身に付いたかどうかはともかくとして、日本人が日本語をどのように見ているのかも私にとって興味深い問題なので、「日本語本」を読むことは苦にならない。
ただ、一つだけ気になることがある。著者の多くが、日本語の話を進めながら、英語との比較をしたくなる気持ちになりがちなこと、
そしてそこに出てくる英語に関する情報が、妙に英語のリアリティーからズレているケースがきわめて多い、ということである。...
「英語との比較」の話ではないが、最近『丸谷才一の日本語相談』(朝日新聞社)にも驚かされた部分があった。
きっかけは、こんな「問い」である。
「リンカーンの有名な言葉、『人民の、人民による、人民のための政治』ですが、『人民による、人民のための政治』だけで意味が尽くされていると思います。『人民の』には、どういう意味があるのですか。助詞『の』について詳しく説明してください」。
この場合の「の」の曖昧さが指摘されて、鋭い質問だと思ったのですが、その答えに、こんなことが書かれていた。
「government of the people, by the people, for the peopleは、『人民を、人民によって、人民のために統治すること』の意である」。
つまり、government of the peopleのofは、「所属」...や「所有」...等々を示すようなofではなく、「目的格関係」...を示すofだと説明しているわけである。
英語圏で141年以上も続いてきた常識的受け止め方が引っ繰り返される、リンカーンも驚くに違いない、突拍子もない文法的解釈だが、 実は、そこでやっと著者がいちばん指摘したかったと思われるポイントが浮上するのだ。
つまり、現在の日本語では当たり前となっている「歴史の研究(=歴史を研究すること)」などのような表現に見られる「目的格」を示す「の」は、「どうも昔はなかったらしい」、英語のofの影響でそれが生じたのではないか、というポイントである。
リンカーンの言葉について簡単に言えば、government (which is) of the people (and is) by the people (and is) for the people (ちなみに、中国ではこれを「民有、民治、民享的政府」と訳されているようだが)のof the peopleは、いわば、「人民の合意の上で出来た」や、「人民の間から生まれた」などのような意味を表している。
リンカーンはこの言葉で「government=政治」を説明しているわけで、 governmentに統治されるのはthe birdsでもthe flowersでもなくthe peopleだよ、とわざわざ述べる必要も意図も、言うまでもなく、ない。”
リンカーンの言葉に関するマーク・ピーターセンの見解は、「(教養のあるネイティヴの)常識」で、私もまったく違和感がありません。
これから、歴史的な事情、文法上の見解なども含めて、「新説の奇妙さ」を詳述する予定です。みなさんのご意見も聞かせてください。
Thank you.
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